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Creating a champion: How a father's trip abroad led Tokido to the top

http://www.espn.com/esports/story/_/id/20444277/creating-champion-how-father-trip-abroad-led-tokido-top-fighting-game-community

プロゲーマー・ときど選手と、父である谷口尚氏(東京医科歯科大学教授)の記事がESPNに掲載されています。
定年退職後は、ときど選手のマネージャーとして世界を周りたいと語る谷口氏。
ときど選手が17歳の時に、初めてのEVOに行く事を許可した父とのエピソードが書かれています。








以下、記事の翻訳です。(誤訳もあるかもしれませんが、ご了承ください。)




それは大きな質問だった。

2002年、17歳の谷口"ときど"一は大学入試の準備を進めなければならなかった。
彼は東京の名門進学校の1つ、麻布高校の学生だった。
彼の父、谷口尚は日本有数の医大である東京医科歯科大学の教授だった。
ときどは入試の参考書に手がつかず、心はロサンゼルスに飛んでいた。

EVOで勝つことしか考えていなかったのだ。

これがときどのラストチャンスだった。
彼はゲームを永遠にプレイすることは出来ないこと、いずれ大学に行き、就職して人生を歩むことを分かっていた。
だから、ときどは父に提案した。ロサンゼルスに行き初めてのEVOに参加することを許してくれるなら、帰国後は勉強に完全に集中できるだろうと。

驚いたことに、谷口氏は「いいよ」と言った。

ときどはロサンゼルスに行き、カプエス2の大会で優勝して1500ドルを持ち帰った。
そしてそれを全額ゲームセンターでのプレイにつぎ込んだ。
約束どおり、ときどは受験勉強をして、日本有数の名門大学である東京大学に合格した。

15年後、彼は再びEVOの壇上に戻ってきた。
今回はマンダレイベイ・コンベンションセンターの数千人の観衆の前で優勝し、35,000ドルを獲得した。
彼のスポンサーは、3度NBAでチャンピオンに輝いたリック・フォックスのEcho Foxだ。
そして彼は世界で最も有名なeスポーツプロゲーマーとなった。

15年以上前の、父の「いいよ」があったからこそ、そこに辿り着けたのだ。


情熱は可能性を生む

谷口氏は1985年7月7日の沖縄にはいなかった。仕事で東京に戻っていたため、息子の誕生の瞬間には立ち会えなかった。

彼の妻・幸子もまた歯科医で、臨月の間、日本の最南端にある出身地の沖縄に戻っていた。
谷口氏は東京医科歯科大学で教鞭をとっていて、残らざるをえなかった。

「沖縄に行ったのは、生まれれてから一ヶ月後でした」彼のオフィスで息子の横に座りながら言った。
谷口氏はまだ白衣を着ていて、患者を診終えたばかりだった。
ときどもまたEcho Foxのロゴが真ん中に大きく入ったシャツという仕事服を着用していた。

ときどは3人の従兄弟と姉のアヤの中で一番年下だった。
彼の両親が仕事に行っている間、ときどと姉はマンションの3階まで歩いていき従兄弟たちと遊んでいた。
ときどはファミコンのスーパーマリオブラザーズを皮切りに、小学生の時に友達の家でストリートファイター2を知った。
彼はゲームが好きになり、夢中になっていった。

中学・高校とずっと格闘ゲームをやり続け、大会にも出場した。
日本最強の格ゲーマーの1人と評判されるほどにまでなった。
しかし、彼のスキルに関係なく学校は計画の一環だった。

ときどは東大でマテリアル工学を専攻し2008年に卒業した。
修士課程では環境問題について取り組んでいたが、研究内容が難しすぎてやがて研究室に来なくなっていった。

ときどは何をすべきか分からなかった。日本のほとんどの学生は大学3年生で仕事の事を考え始める。
通常、その仕事は生涯にわたるもので、この期間に仕事を見つけられない者は見下される。

ときど『その当時、公務員になることを考えていました。非常に安定していますが、給料は高くありません。』
ときど『公務員ならある程度の休暇を取って、ビデオゲームのような趣味を楽しむ時間が取れると考えました。』


この時、ときどは日本で最も有名なゲーマーであるウメハラがプロゲーマーになったということを聞いた。

24歳のときどは、父親にプロゲーマーの道を追い求めるべきかどうかを相談した。
そしてまた、彼は驚かされた。

谷口氏「即答ですね。彼の考えを受け入れました。」

谷口氏は多くの昔ながらの日本の親と違って、息子がゲームに入り浸ることを気にしていなかったようだ。
彼は趣味や情熱を持つ事は良い事だと感じていた。
谷口氏にとってそれは音楽だった。彼はミュージシャンになる夢を持っていたのだ。

「でも才能がありませんでした。」と笑いながら言う谷口氏。
「その当時、収入的には歯科医というのは日本ですごく良い職業だったんです。」

谷口氏はシンセサイザーのアイデアに魅了され続けた。
一つの楽器で彼はモーツァルトを再現することができた。
しかしシンセサイザーは当時も今も高価なものだ。

彼の目標は歯科診療で得た収入を使ってシンセサイザーを購入し、交響曲を作曲する事だった。
そして彼はそれを成し遂げ、同僚たちの耳に届けられている。
「3年前、このオフィスにたくさんシンセサイザーがありました。」

彼の音楽への愛は仕事にひらめきも与えた。
彼の音楽への理解と顎顔面補綴学の専門知識を生かすことで、治療中に顎が切除されたガン患者が再び話せるようにする研究を進めることが出来た。

彼は常に情熱を持っているように見えた。
そしてその情熱を追求しようとする欲求は、息子の前にある可能性を開いたのだ。


伝統を打ち破れ

日本は非常に保守的な国で、多くの親は子供に伝統的なキャリアを追求するよう育てる。
谷口氏の2002年の決断は、ある点では異様なものだった。
彼にしてみれば、それは論理的な選択だったのだ。

谷口氏は語る。
「その当時、私はこの大学の副学長で学生課を担当していました。本当に多くの学生が私に厄介事の相談をしてきました。」
彼はしばしば学生と両親の争いを聞いて、将来の計画を立てる時に学生が直面する問題についての視点を与えた。

ときどは言った。
『イカれてると思いましたね。普通の親はそんな事絶対言いませんから。躊躇せずにやれ、お前の道を進めなんて。』

ときどはEVOで日本の最年少プレイヤーだったが、年上のプレイヤーと交流する方法を見つけた。
彼は学校で英語をきちんと勉強していた。
『日本のプレイヤーはほとんど英語が話せませんでしたからね。』
それで彼は日本のプレイヤーの事実上の通訳となった。

ときどは自身の英語を良くないと認めたが『どういうわけか、彼らとコミュニケーションを取るうちに嬉しくなって、ちょっと自身がつきました。』

これはEVOやカプコンカップがESPNやTwitchで数十万人の視聴者相手に放送されるよりもずっと前の話だ。
ときどはストリートファイターが成長し続けるのを見てきた。
大学のジムで行われた最初のEVOは、すぐにラスベガスに移り、やがてマンダレイベイへと移った。

谷口氏は今年、息子がEVOで戦う姿を見ることは出来なかったが、ときどの偉業はニュースサイトでも報じられた。
翌日、多くのスタッフから祝福の言葉をかけられた。

谷口氏は語る。
「世界チャンピオンになるのは非常に難しい事です。私にとっては、歯科医であるほうがずっと簡単です。」

3月には東京医科歯科大学に勤めて38年になり、定年退職を考える時期でもあり、彼自身もときどの情熱に浸ろうとしている。

「できれば、息子のマネージャーになりたいですね。」と谷口氏は語る。
「息子と一緒に世界中を周りたいです。」

ときどは驚き、目を細めてしばらく父を見ていた。
谷口氏は息子を振り返り、笑った。



僕は格ゲーをプレイしながら死にたい

ときどは今32歳だ。人生の半分以上、格闘ゲームをやり込んできた。
メジャーなスポンサーと大会での勝利、彼の将来は約束されているように見える。

『引退はしたくないです。自分にとっては、EVOで優勝したから最強というわけではありません。世界には自分より強いプレイヤーがいるということを知っています。』

しかし、EVOやカプコンカップ優勝が最強とならないなら、何があるのだろう?
ときどは仮説を用いて答えた。

『格ゲー星人が地球に侵略してきて、もし彼らが勝てば格ゲーを失う、プレイできなくなるとします。地球代表としてたった1人のプレイヤーが戦うことが出来ます。誰を選びますか?』

ときどは、それを乗り越えられる唯一の存在はウメハラだと考えている。
躊躇無く、自分が同じ立場になるまで、彼は自分を最強だとは考えない。
たとえ彼がそこに辿り着いたとしても、ときどは満足しないだろう。

『僕は格ゲーをプレイしながら死にたいんです。』

それでも谷口氏は、ときどが人生において次の大きなステップを踏み出すべき時期だと考えている。
「結婚して欲しいですね、良い奥さんを持って。」
谷口氏は28歳で結婚した。
「彼には、妻がいればもっと強いプレイヤーになれると言いたい。」
ときどは含み笑いをし、目を細めて長い間父を見つめていた。